作品感想&紹介

『阿・吽』第五巻レビュー【最澄と空海、遣唐使船は唐に辿り着けたのか?!】

こんにちは、いぇんです。
本棚にあるものを紹介する、「ぶらっと、本棚シリーズ」です。
おかざき真里先生の漫画『阿・吽』第五巻レビューです。

おかざき先生自身の紹介は下記の記事もご覧下さい!

おかざき真里先生の描く、最澄と空海。女性の感覚で描き出す真理の世界。漫画『阿・吽』1巻レビュー女性漫画家が描く最澄と空海。阿吽の第一巻レビューです。 同世代を生き、交わった二人の青年の阿吽を描き出します。 女性の感覚から捉える真理の世界を、繊細な線と間から感じ取る作品です。...
著:おかざき真里, その他:阿吽社
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第二十八話 双黄鵠(そうこうこく)

ここまでの話で空海の方が遣唐使にグイグイ近づいているかのような躍動感がありましたが、
最澄の遣唐が決まり、空海は叶いませんでした。

桓武天皇の覚えもめでたい高僧に会いたがる権力者や市井の者でごった返す比叡山。
以前は目の前の人を救う、救わないで涙を流していた最澄ですが、
万人を救うための真理を見つめる最澄は、以前のように涙を流したりはしませんでした。

一方渡唐を絶たれた空海は煩悩を振り払うように荒業に没頭します。
真理へと至る道が失われた。それは空海にとっては死と同じ。
食事も水もろくに摂らないまま、
茫洋とした状態でふらりと寺を抜けて山に入っていきます。

第二十五話 再生

最澄の元を訪れる人の中には、最澄をエリートにするために尽力した母も顔を合わせにやって来ました。
しかし最澄の出世や活躍を喜びますが、
全ては母自身のための行いとなっていることを今だに無自覚なままです。
「母の気持ちを、無駄というのか?」
これは自身を被害者にして相手を加害者にさせ、罪悪感を芽生えさせようというやり方です。
最澄はただにっこり笑って、諭すでもなく、肯定するのでもなく、
ただ、世界を救わねばなぁ、との思いを深くするのです。

一方、空海は芒洋とした状態で山に入り、何処かへと向かっていきます。
権蔵和尚と智泉は自分達では彼を救うことができない。
彼の帰りを待つことしかできないと、心を痛めながら待つことを決めます。
空海が真理を追い求めるのではなく、真理の方が空海を愛している。
だから空海は真理に突き動かされる。そこには我も欲もない。
この絵は空海の形をした真理だということができます。

この真理の権化と化したズルズルドロドロの空海と、何かを悟った最澄が再び相見えます。
最澄は重湯(水っぽおかゆの更に上澄み部分。伝統的な流動食)を用意して、
近づいてきた存在と対面します。

ここに会話はなく、絵だけで進行してします。
ズルズルドロドロの何とも言えない存在となっている空海の口の中に、最澄は重湯を指で与えます。
するとそのズルズルドロドロの何かは、赤ん坊のように大声で泣き出してしまいます。

ここは以前、体を奪われたにうつを助けるべく、
口移しで水を与えた空海の場面と似ています。
空海の行為も、最澄の行為も、やるべくしてやったことでしかありません。
施しの意識も、善意の意識もありません。
でも与えられた側には大きな、光に、エネルギーになる。
命が花開いて『救われた』と感じる。

自分ごとに置き換えて少し難しいなと思うのは、
圧倒的な力で救うことがいいことなのか?ということです。
救われる側と救う側の目線が離れすぎていると、
それは救いにならないような気がするからです。
最澄だから空海を助けることができた。逆もまた然り。
同じ力がなければ救えない。
勤操和尚と智泉が空海を救えないと悟ったように、
自分達の光が弱いということ自覚した故の行動は理解できます。
強すぎる光は毒と言われるように、強すぎる最澄と空海が、
遍く弱々しい人々を、圧倒ゼスに救うことは本当に可能なのかしらと。
そんなことを考えます。

空海はこの後、また人の姿に戻って 笑、躍進していきます。

第二十六話 別離

前話で人の形を無くして彷徨った空海でしたが、
最澄の救いで勤操和尚の元へ戻って来ました。
遣唐使の船はすでに出港しており、遣唐使になる道は断たれていましたが、
改めて、正式な僧侶になるための手続の依頼をします。
それは通常簡単なことではありませんが、
人たらしである空海は言葉で、所作で人の心を操ります。
トップの大僧正に話をつけて、様々な必要な儀式の段取りを異例のスピード感で取り付けていました。

そこに舞い込んだのは、出発した遣唐使の舟が一掃、瀬戸内で座礁し留め置かれている。
代わりの人員となる僧侶をいますぐ派遣してほしいとの依頼でした。
正式な層になった今の空海になら資格があります。
こうなることを知っていたかのような展開に、
勤操和尚は(読者もですが)驚きを隠せません。

奈良から瀬戸内まで行くのにも時間がかかります。
その足として名乗り出たのは、空海の父です。イケオジです。

海運業を営む市井の人です。
海と空との間で営みをする父親。
遣唐使の舟は唐に渡れるのかすらわからない道のりです。
はっきり言ってこれが今生の別れとなる可能性が高い。
海に漂うことになるなら、それはそれで形を変えてまた出会うことになるだろうと。
そういう別れの言葉を投げます。

いい話をしておいてなんですが、
Wikipediaによると、父、佐江田公(さえきのたぎみ)は地方豪族で、
空海を中央高官にするための阿刀大足に空海を預けるなど、野心的であったとの説明です。なのでイケオジなのはこの漫画の中だけかもしれませんが、
かっこいいですよ。

桟橋で別れの挨拶を交わす中に、これだけ世話をした勤操和尚はいません。
崖の上から様子を眺めるだけです。
この気持ちの説明、変化はおかざき先生のストーリーの運びの素敵なところです。

おかざき先生は、これまでに女性が中心のストーリーをたくさん発表されていますが、
本当に些細な言葉やほんの少しの優しさが、心と体を癒していく様子を描くのが得意です。
勤操もこれだけ目にかけた空海に挨拶できない心中を、自問自答します。

叶いっこない願いを抱く青年を支援する無謀さに本気になって打ち込んで。
そしてそれが現実味を帯びた途端、止めるように説得する弱さ。
隠していた嫉妬。でも空海の透明で真っ直ぐな力と、おかざき先生の描くコマの運びから、
シンプルに、ただ寂しいという気持ちを見つけて、受け止めることになります。

ただ圧倒的な寂しさ胸に抱く。
支配されるのでもなく、ただ心に依っていることを悟る。
胸が詰まる素敵な場面です。

そして、空海は留め置かれた遣唐使舟に追いつきます。
最澄、空海、霊仙、橘逸勢と共に、長安を目指します。

第二十七話 セッション

空海と最澄の経典の読み合わせ=セッションです。
二人はこの第二十七話でやっと初めて、同じ時間を過ごします!
長かったよ!!五巻まで!!
これまでも間接的に、心情的に、絵的に絡み合うことはありましたが、
同じ時代と空気を共に共有する、連続した台詞の応答があるのはここからです。

遣唐使船は太宰府に立ち寄り事務手続きを行いながら、
空いた時間で僧侶同士の交流も兼ねてのお勉強会です。
しかし先んじて始めていた最澄と空海の凄まじいやりとに、
他の面々は部屋の中で息をするのもままなりません。

経典を通して、互いの阿頼耶識(潜在意識のようなもの)の中を垣間見ます。
阿頼耶識を通じて互いを確かめ合います。
何言ってるかわからないと思うんですが、私も何を言ってるのかわからねぇのですが、
現場に居合わせた橘逸勢や霊仙も何が起きてるか分からなそうでした。笑

空海という人間の姿を前にして、
これまで度々出会った光は、闇は、君のことだったのか、と漸く認識した最澄。
この光と闇は比喩だとは思うのですが、最澄は晩年、目が見えなくなります。
事実として、空海の輪郭をはっきりと捉えられないという表現の可能性もあります。

第二十八話 赤岸鎮(せきがんちん)

遣唐使船は1隻に100人を超える人が乗り込みます。
空きページにおかざき先生の可愛らしい絵と文字でサラッと解説してありますが、
今回出発した4艘のうち、2艘は行方不明となっています。
最澄の乗った第二艘は無事目的の港に到着しました。
空海、霊仙、橘逸勢らが乗った第一艘は、航路を外れて中国の南の地域、赤岸鎮に漂着します。
遣唐使が命懸けというのが分かります。
橘逸勢も、今回の遣唐使をまとめる藤原葛野麻呂も、
こんな死ににいくような船旅行きたくない!!
という思いが随所に現れていますが、わかる。私も行きたくない。

赤岸鎮を治める豪族に、「自分達は日本からの使節であり、海賊ではない。上のものに話をして、この土地を抜けて長安へ向かうことを許して欲しい」という嘆願書を書きます。
これは今回の遣唐大使である長官・藤原葛野麻呂の役目なんですが、
毎回書簡をくしゃくしゃにされて取り合ってもらえません。
泣きながら書簡を書く藤原葛野麻呂が可愛いです。

しかし慣れない土地と猛暑、劣悪な環境に疲弊していく乗船員たちを前に、
霊仙和尚が空海に「もういいだろう、お前が書を書け」とけし掛けます。
弘法大師である空海の文字、言葉を文にするや否や、
豪族は態度を変えて福州の長官・閻濟美への面会を許可されます。

最初から空海に書かせればもっと早くことが進んだのに、
という意見に対して霊仙の台詞です。
それぞれの立場、役目、面子があり、それを立ててこそ円滑に仕事は回るのだという話です。

効率というか、効果主義というか。
即効性のない行動は無駄として軽視されがちな現代ですが、
こういう考え方も残して心におきたいものですよね。

第二十九話 へんげくうかい

福州の長官・閻濟美からのお達しがあり、
船で到着した100人以上の人間のうち、長安に入れのは20名ほど。
留学生の滞在費は唐が持つので、その選別が行われます。
ところが空海はその20人の内に含まれませんでした。

当時美しい文字を書けるということは、それだけで大きなステータスでした。
地位の高い人々は挙って美しい文字を書ける人物を重用します。
空海も閻濟美に目をつけられ、自分の元で働くよう求められます。

空海を長安に行かせないなんて。
遣唐大使である藤原葛野麻呂が長官・閻濟美(えんさいび)に直談判しに行きます。
というと、格好がいいですが、
もう泣きながらでも、行くしかないというコマです。

可愛い。笑

頼りない、情けないとずっと言われているのはわかっている。
希望ある有能な留学生を学ばせたいという使命感から動いているのではない。
もう自分が情けなくて、それに耐えられなくて。
もうそんな気持ちを持って歩き続けることはできないから。
雨の中だろうが、扉を開けてもらえるまでここに居座ると。
どうか面会をお許しください。

果たして、閻濟美に面会することが叶い空海が差し向けた書簡でもって、
空海は自ら長安行きを手繰り寄せます。

閻濟美へ当てた手紙の内容は、
「自分はまだまだ未熟者で取るに足らない小さな存在。偉大な閻濟美長官に、長安で学無ことを許して欲しい。学ばせて頂けたなら、速やかにあなたが期待するような大きな人間になることでしょう」
というような内容です。
閻濟美の偉大になりたい、大きいことに価値があるという野心を見抜き、
自分はそれには沿えるほどの大した人物ではない、と自分に興味を失わせる内容です。

さらにおかざき先生の絵で、閻濟美の心が現れています。
偉大なものに心を奪われている己の周りには目をひらけば何もなく、
たった一人盲目の従者しかそばにはいない。
その彼女こそが自分を慕い求めている者。
大きな自分を追い求める閻濟美、しかし実は小さな閻濟美を知っていて、
大小で判断していないで付き従っている従者を見つける、という絵になっています。

空海の言葉も良いですが、
おかざき先生の絵が描き出すものもまた、尊いなと感じる今回の話でもあります。

第五巻 まとめ

二人が遣唐使となり、長安へといくまでの道のりです。
一話一話の見どころがありすぎて、一コマ一コマ取り上げたくなります。
絵で伝えるメッセージも大きくて、没入して鑑賞してしまいます。

海を渡り異国の人々と繋がっていきます。
文字を通し、共に真理を知ろうという者同士の交流は、
だんだん気持ち悪いレベルになっていきますが、
ぜひついてきてください!

ABOUT ME
つきよの
昭和生まれのおひとりさま女性。人付き合い苦手、父親に殴られ男性不審、10年付き合った彼氏にお金を貸して破局、大学中退、うつ、社畜、不当解雇、といった経験を飯の種にして「自分に正直に生きる」をモットーにしています。人生いろいろありますよね。

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